
冬の道志の森キャンプ場にて桜の薪で焚き火特に木枯らし吹く冬。夕方、コートの襟を立てて、背中をまるめて足早に雑踏を歩く人たちを見ていると、おでんと熱燗が恋しくてたまらなくなってしまう。
月が煌々と輝き、北風が冷たい夜。ひとり心寂しさを持て余すような時、街の人工的なLEDの冷たい光の中に、場末の赤ちょうちんがなんと暖かく見えることか。
電球の光は、聞くところによると、高から低までとても広い波長をまんべんなく持っているのだという。それがあの暖かさにつながっているのだろう。それは、デジタルに較べて、はるかに豊かな音を楽しませてくれるレコードの柔らかな音に通じる。
アナログはデジタルに較べて、膨大な連続した情報を持っている。かつて「アナログチック」という言葉が、何かを馬鹿にするときに使われていた。しかし今、アナログこそが最先端なんじゃないのか、と思えてくる。いや、そうに違いない。
“出来たようだと心で察し、尻に手をやる、燗徳利”
これなんだな。赤ちょうちんに吸い込まれ、カウンターの端に座る色っぽい姉さんと一瞬でも視線を交わせたなら、もうそれだけでむせび泣けるってもんだ・・・
新宿なら、西口のションベン横丁(思い出横丁)がいい。ここを流していると、いつの間にか身も心もあたたかくなってくるから不思議だ。飾らない。蔑まない。人を値ぶみしない。先ごろ一世を風靡した「アナと雪の女王」の主題歌。「ありのままで」いられる場所だろう。まあ、いちばんのありのままは、風呂に違いない。家も、車も、財産も、アクセサリーも、衣装も何もなし。身一つ。
で、こんな場所でおでんを肴に熱燗をやっていると、たまに流しがやってきたりする。本来ならピンカラ兄弟の“女のみち”あたりをリクエストできればいいのだろうけど、歌えないので遠慮している。人の会話をBGMに、からしたっぷりの大好きなちくわぶを頬張っていると、後ろの戸が開きサラリーマンがひとり。背中にひやりと冷たい風を感じたその時、「あ・・・」と思った。
たまらなく焚き火を前に飲みたくなってしまったのだ。前は厨房で暖かい。しかし背中はひやりと冷たい。これは炎を前にした焚き火と同じ状況ではないか。広葉樹の焚き火を時間をかけて育てながらアジのみりん干しでもあぶって、熱々を頬張ったらうまいだろうなぁ、なんて想像をしてしまう。こうなったら最後、居てもたってもいられなくなり、その夜、家に帰るなり、ゴソゴソと週末の焚き火キャンプの準備が始まることになる。
“おでん、熱燗、キャンプの焚き火、やけどするならあんたの恋で”
なんて下手な都々逸ひねっているけれど、毎度の焚き火キャンプは男ばかり。燻製して、たき火して、昼間つくった、ベーコンやハムで料理して。北風のシーズンは、LEDの光とは無縁のアナログなぬくもりに恋い焦がれた心を癒す“焚き火キャンプ”の季節。焚火の炎さえあればそれでいい。
そういえばペルシアの拝火教では、神殿の中にあるのは炎だけ。いや、炎の上に神殿が立ったのではないのか。そこでは炎こそが生であり、聖であり、清であり、正なる存在だったのだろう。だとすれば、生きるほどに不条理に揉まれた男どもが雑念を燃やし尽くしてくれる焚火に、癒しを求めるのも道理なのかもしれない。
さて諸兄、この冬、焚火キャンプに癒されに行くとしますか。
【雑文リンク】
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