怪談倶楽部 第十九話回顧するほど古い時代の話ではない。メーカー系の広告代理店に勤務していた時代の出来事だ。
汗がジュッと音を立てて蒸発しそうな毎日が続いていた。暑気なんて言いざまは過去のことで、今となっては熱気、いやいやそんな生易しいものじゃない。灼熱の地獄といってもいいとさえ思えてしまうほどの下界の夏だった。
だから、お盆をはさんだ夏季休暇に計画していた登山は、ボクにとってパラダイス以外のなにものでもなかった。まだ一週間前だというのに、パッキングを済ませ、山のご馳走を想像しながら食糧計画を楽しんでいた。
この時の登山計画はベースキャンプ型。山から山へとハイキングしてテント場を変えるのではなく、一ヶ所に留まり、そこをベースキャンプにして、のんびりと滞在と周囲の登山を気ままに楽しもうという計画だった・・・
夜中に車を走らせ、登山口近くの駐車場についた。外に出ると、まだ暗い空には星々がしっかりと見えていた。ボクはフリースを羽織ると、駐車場で準備をすませると青暗い中を山に入った。今回はクライミングはやらない。重たい登攀ギアの類は一切担いでないのに、5日分の贅沢な食糧がずっしりと肩に喰いこんだ。
目的のテント場までのんびり歩くので1泊2日。翌日、念願の地に、ささやかなベースキャンプを確保すると、手近なピークを登った。午後早くテントに戻ると、サッと一雨きたのでテントの中で夕食のしたく。飯を炊き、匂いがこもらないようフライの下で豚肉の味噌漬けを焼いていると、小降りになった雨の中、ガサゴソとすぐ横でテント設営の気配がした。時刻は午後16時。かなり遅めの到着だ。
コッヘルに山盛りにしたごはんの上に、豚肉の味噌漬けをのせ食べていると、雨音がぴたりと止んだ。換気のためにフライを開け外を見ると、すぐ横にボクとまったく同じオレンジのフライをかけたエアライズ・テントが見えた。間違えないようにしなくちゃ、と思い、手を伸ばして入り口横に石を並べていると「こんにちは」と声がした。
見ると横のテントから年のころ60過ぎと思われる、よく日に焼けた初老の男性がニコニコと笑っている。ボクも思わずこんにちは、と応えると「おいしそうなにおいですね」と穏やかな顔で話しかけきた彼も、フライの下で何やら食事の準備をしている様子。
このお隣さんとは、2メートルほどの距離で夕食と雑談を楽しみ、その後軽くウイスキーで乾杯し、良い気持ちになって18時頃に寝袋にもぐりこんだ。
夜半のこと。うお・・・なんだよお前・・・という低く、くぐもった、言葉にならないような緊迫したような声とテントのファスナーの音にボクはすぐに目を覚ました。テントは薄い布地だから、2メートルの距離だとため息すらよく聞こえる。時計をみると午前1時半。そのまま息をひそめ、耳を凝らしていると、声はそれっきりだった。わざわざテントを出てみることもあるまいと、そのまま寝てしまった。
翌朝4時少し前。隣のガスストーブの音に目が覚めた。遠くの方でバサバサとテントを撤収し出発する音も聞こえた。しかしこちらは停滞だ。のんびり稜線散歩をしたら昼寝でもするかと幸せな気分だった。やがてお隣さんが登山靴を履いてテントを出る音がしたので、あいさつも兼ねてボクもテントを出た。
お互いに「おはようございます」とあいさつをした。彼は寒がりと見えて、テントを撤収する間中、ダウンジャケットを着た身体を縮めるように震えていた。その様子があまりにも大げさなので「寒いですか?」と訊ねてみた。
「体が底冷えして、まったく温まらなくて」と畳んだテントをザックにパッキングしながら、やつれたような表情で応えた。
「昨夜はそんなに寒くはなかったと思うんですが、もしかしたら熱があるのかもしれませんね。どうですか?」と言いながら、ボクは解熱剤を出した。
「いやいや、どこも悪くないです」と、彼はボクの差しだす解熱剤を固辞しながら、ほんとうに奇妙な、おかしなことなんだけれど、と次のようなことを話はじめた。
夜中、自然に目が覚めることは誰にでもある。
彼は昨夜、明るい月明かりに照らされたテントの中で、ふいに目が覚めてしまった。しかし音かしたわけではないし、体に何かが触ったわけでもなかった。理由がわからず、月光に明るく照らされたテントを眺めていると、入り口のある頭の方に何かがいるような気がしたのだという。それこそ理由もなく“何かがいる”と思った。彼が思い浮かべたのは、隣のボクのことだった。
シュラフのまま起き上がり、テントとフライのファスナーを開けた。するとテントの前にしゃがみ込んでじっとテント内を見ている男がいた。彼は不審に思い、入り口前にしゃがみ込み、じっとこちらを見ている男の顔を覗き込んだ。
そこにあったのは、普通の人のようで人でない、青っぽい影の実に奇妙な男だったという。声をかけても応えず、黒い眼は、こっちを向いているが、自分のずっと後ろの虚空に向けられている。ロウのようなつるんとしたなめらかそうな肌。しかし息をしている気配は感じられず、そのうちに背筋がぞくぞくとして、身体が芯から冷えてきた。
彼は、体温をすべて奪われてしまうと直感し、テントの入り口をしめて寝袋で丸まって朝まで過ごした。不思議だったのは、フライを閉めるときに男の体に手が触れたはずなのに、何も触れず空を切ったことだった。その瞬間、この世のものではないと感じた。あれほど恐ろしかったことはない。彼はそんなことを話すと、それじゃあ、と言ってテント場を後にした。
それからわずか1~2時間後のこと。彼は岩場で足を滑らせ、100メートルほど滑落した。しかし運が良かったため、歩くことはできないながらも命には別条なかった。その場所は、ほんとうなら滑落死してもおかしくない場所だった。
実は、ボクが彼の滑落を知ったのは、日差しの強い午前10時過ぎ頃だった。コーヒーを飲み、本のページをパラパラとめくり、時にウトウトとうたた寝などをしながら、テント場で過ごしているときだった。一歩、また一歩と、壊れた人形のような歩き方というか、動き方で山を下りてくる人が目に入った。その姿を見ながら、しばらくうたた寝し、またテントの外を見ると、その人物が先ほどよりは近づいた位置に居た。
ぎくりと動いては、動かなくなり、またしばらくして動き出す。おかしいなと思い、近寄ってみると、お隣さんだった。あそこの岩場で100メートルほど滑落したんですよ。いや、お恥ずかしい、と照れ笑いを見せたものの、その顔は苦しさにゆがんだ。
最初はちょっとずつ歩けたようだけれど、すでにほとんど歩くことはできないようだった。応急処置しようと、傷みの具合と、感覚麻痺の部位など調べると、足は骨折していなかったが、腰骨を損傷しているかもしれないと感じた。
できるだけはやく搬出しなければと判断したボクは、子供のように嫌がる彼に動かないように言うと、すぐに小屋に救助を要請。3時間ほどで下から救助スタッフが上がってきて、タンカに乗せられるところまで背負って下りて行った。彼は地元の山岳会のメンバーで、このことを仲間に知られるのを嫌がっていたのだ。後輩の手前、かっこわるい、ということかもしれない。
ひと騒動終わった後で、彼の言葉を思い返していた。滑落の原因がとても奇妙だったからだ。何度も歩いた岩場をいつものように歩いているときのこと。切り立った足元の下のほうに、ちらりと青い色が見えた。彼はそれを凝視した。青いヤッケを着た人だった。滑落したのか、岩の間で動いていないようだった。声をかけようとした瞬間、吸い込まれるようにして、落ちてしまった、ということだった。
ボクは、念のために岩場をたどって、その場所を確認したが、そんな青いヤッケの人影などどこにもなかった。その場所では滑落死亡事故が時々おきていることは知っていた。それと関係があるのかないのか。それはわからない。そして、なんだかものすごく憂鬱な気分になった。
この夜のこと。夕食を済ませると、トイレを借りるため小屋に入った。トイレに近づくとトイレの前の薄暗い影に佇んでいた人らしきものが、スッと横に滑るようにしてトイレに入ったように見えた。その時にちらりと、いやに鮮明に見えたのはヤッケの青い色だった。この瞬間、ボクはお隣さんの見た、岩場の下に見た青いヤッケの男を思い出した。
そのまま20分近くそこにたたずんでいたが、2人が入り、その2人が出たが、青いヤッケの男は出てこなかった。我慢できなくなり、勇気を出してトイレを使用したが、中には誰の気配もなかった。小屋を出ると、わけもなく背筋がゾクゾクとして、振り返ることなくテントに入ると、寝袋にくるまってウイスキーを舐めながら、酔いの力で強引に眠った。
酔いにまかせて眠った理由は、昨夜お隣さんのテントの前でじっとしゃがんでいたのは、あの青いヤッケの何かだと、直感したからだった。この夜、ボクのテントの前にしゃがまれた場合でも、目を覚ましたくなかった。だから、したたかにウイスキーを飲んだ。
おかげで翌日は二日酔いだった。ボクは、気分すぐれないまま、予定を早めに切り上げ、ずっしりと重い豪華な食糧を背に下山した。
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ここのところまったく休暇がとれず、
山にもキャンプにも行けないでいるので、
山気分を味わおうとやってきたら、怪談~!
うひゃひゃ、夏ですよね。
こういうことありそうなので、それがまた怖し(^^;;;;;