怪談CLUB 第十七話それは、未明のできごとだった。
テントの外でガラリ、と石の音が聞こえた。
その音で目が覚めた。
石の音を立てるというのは、野生動物ではない。人間だ。ボクはテントの中で、じっと耳をそばだて、息を殺して何かの気配を探った。動くとシュラフのサラサラという音が外の何かに気取られそうで、じっと息を殺したまま、しょぼしょぼする目をしばたいた。
月齢15に近いこの夜は、高気圧の影響で雲一つない空のはず。きっと満天の星の上には、銀色の月が輝いているのだろう。テントの中はかなり明るかった。
しばらくしても、いっこうに何の気配もなく、いい加減「気のせいかな・・・」そう思った時だった。
耳元で、本当に耳に唇がつくほどの距離感覚で「ちがうのよぉ・・・」という明瞭な女の声。嘆願するような、喉の奥から絞り出す震えるような声だった。
その瞬間、ざわざわと全身が総毛だった。頭髪さえザワリと総毛立っていた。鳥肌立つという経験は山をやっていて何度も経験したけれど、頭髪が逆立つような感覚はは初めてだった。ぷつぷつという毛穴の感覚は、やがてチリチリと変化し、いつまでたっても収まらなかった。やがて全身に冷たい微弱電流が流れるような体感となった。
(どうしたんだ・・・)
気持ち的には、単なる幻聴のような、おかしな体験だ、としか認識していないのに、身体が異様に反応してしまい、激しく総毛だったまま、まるで収まらなかった。
(今の声は、幻聴?)
それにしては、いやに生々しすぎた。プツプツと鳥肌立つ全身の毛孔という毛穴を意識しながら、耳元には、リアルな唇を開く音と吐息が生々しく残り、暗闇から発せられて暗闇に消えて行った意味不明の「違うのよ」という絞り出すような声が繰り返し繰り返し、リフレインされ続けた。
(やばい、やばい・・・これはやばい・・・)
という思いが頭の中で渦巻いた。そして根拠もなく、このまま生きてはいられないかもしれない、という恐怖心が嘘のように去来しては波のように去ってゆく。その感覚に
(やばい・・・・やばい・・・)
という思いがさらに大きくなり、乾いた唇を舐め、唾を飲むたびに、シュラフがかすかにサラサラと音を立てた。
頭髪のゾクゾクと総毛立つ感覚も生まれて初めて経験するほどの強烈さで、髪の毛の一本一本がメデューサのように、ヘビになって暗闇にうごめいているのではないかとすら思えるほどの違和感だった。そして、いつしか身体が急激に冷えてきているのに、じっとりと汗ばんでいた。
(ちがうのよぉ・・・ちがうのよぉ・・・)
頭の中では、最前聞こえた女の声が何度も繰り返す。これを打ち消すように
(やばいよ・・・やばい・・・やばい)
と強引に脳内で繰り返した。何かを心の中で唱えていないとどうにかなってしまいそうだった。こんなことをどれほどやっていたものか。ある瞬間、カラカラ・・・という小石の音が遠くで聞こえた。
それに続いて「しゃっっ」という、鋭い声がした。発音的に「Yシャツ」の「シャ」の音を、声を出さずに、息だけで鋭く発したような、そんな音だった。
すると、遠くの方で、何かが弾けるような“パーン”という乾いた音がかすかに響いた。それはまるで、冬山で、樹木内部の水分が凍って膨張し破裂する時に出る乾いた音「凍裂音」そっくりだった。
その刹那、頭髪から全身を覆っていた鳥肌が、嘘のようにスッと消えた。たとえれば、頭の先から足まですっぽりとかぶされていたチクチク、ムズムズする布を、パッといっきにはぎ取られ解放された、としか形容できなかった。それほど劇的な変化だった。
ボクはシュラフから口を出して、大きく呼吸をした。この時、今まで呼吸もごく浅くしかしていなかったことに気づいた。しかし、声を出す気持ちにはならず、頭の中で
(なんだよ)
とつぶやいた。
この後、しばらく起きていたけれど、いつの間にか寝てしまったようで、次に目覚めた時には、空が白みはじめていた。ボクはテントを出ると、橙色に染まり始めた、これから向かう山々の稜線を眺めた。そして、どこか重い気分を残したまま、紅茶とビスケットだけの朝食を簡単に済ませると、次のテント場を目指して縦走を続けた。
この山行では、この後、別段取り立てて変わった出来事は起こらなかった。大学時代の個人山行中の出来事だ。もう20年以上にもなるが、今でもあの女の言葉、吐息は、鮮明に焼き付いている。
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