
信州峠(クリックで拡大)山に親しんでいると数えきれないほどの“峠”との出会いがある。数えたことはないけれど、山の名よりも峠のほうが多いようにも思えてくる。
峠に興味を抱いたのは小学4年の頃。登山を趣味としていた母が山仲間とハイキングででかけた十文字峠に連れて行ってもらった時のこと。母の山仲間のひとりが十文字峠についていろいろと話してくれたその中に、十文字峠は昔は中山道の裏道として多くの旅人がた~くさんこの峠を越えて歩いていた、メインストリートだったんだよ、という話がとても衝撃的だった。
目の前には舗装もされていない、歩きにくい山道が山の中に伸びているばかり。これが昔のメインストリートで、たくさんの人が往来していたと想像したとき、ものすごくワクワクした。それ以後、登山と言うより峠歩きがしたくて山の地図を筆頭に「Backpacking」などバックパッキング系の雑誌を読み漁るようになった。つまり当初憧れていたのはクライミングとか登山ではなく、峠を経巡るバックパッキングだった。
しかし高校で山岳部に入部し、大学山岳部、社会人山岳会と流れるうちに峠のことなどいつしか忘れ、どこぞの主稜だの、なんとかフランケとか北西稜だのとクライミングを続けていた。そんなある時、残雪の奥又白のテントの中で会の先輩が「昔の登山家がしたように徳本峠を越えて上高地に入ろうかな」とぼそりとつぶやいた。他のメンバーは今さら峠越えかよ、と笑って終わってしまったが、しかし、この時ボクの中では少年時代の峠を思うときのワクワク感が蘇った・・・

旧大石峠なんというのか、このワクワク感というは、自然の素晴らしさへのワクワク感とは少々異質なもので、緑に埋もれた峠に秘められたかつての姿や、大げさに言えば登山とは全く違う、現世とは異なる過去という別世界への精神的ワープを体験したいという、極めてノスタルジックな気分を求めてのことなのかもしれない。
たとえば大菩薩峠。かつての大菩薩峠は丹波大菩薩峠という場所にあり、現在のフルコンバ付近。ここには荷渡し場という名が付けられており、甲州側と丹波側の民の間で無言貿易が行われていたという。この無言貿易は体制に与しない、例えば遠野物語などで山人と表現されている民らとの交易実態が隠されているように思えてならない。戦前まであちこちの山野にしっかりと暮らしていた彼らを、三角寛(みすみひろし)が「サンカ」などと蔑むような蔑称で表記しつつ世間受けを狙って面白おかしく著した「サンカ物語」などがあるけれど、”無言貿易”という呼び方には言葉が通じない者らの交易の姿が見えてくるようだ。こうした山に生きる体制の外に生きる者にとって、峠は重要な場所だったに違いない。

麦草峠への分岐(クリックで拡大)また、道路などというものが存在しなかった時代、主要道路は尾根筋だったと想像している。これは山歩きしていての直感で、尾根上に出れば展望により位置の同定も容易だし、特徴のある山頂を目標に移動できる。よく標高の高い場所に古い山村が残っていたりするが、それは、かつては尾根というメインストリートにアクセスが容易だったゆえにそこに作られたのではあるまいか。そうだとしたら、現在ひどく不便に思えるその山村も、かつては至極便利な一等地だったと言える。
そういうメインストリートへの到達点が峠だったのだと、なんとなく想像していたりする。この峠を語源辞典で調べてみると
“峠とは山道を登りつめたところ。山の上りと下りの境目。『万葉集』に「多武気」の例があるとおり、古くは「たむけ」といい、室町時代以降、「たむけ」が「たうげ」に転じ、さらに「とうげ」に変化した。「たむけ」とは「手向け」のことで、神仏に物を供える意味の言葉である。これは、峠に道の神がいると信じられており、通行者が旅路の安全を祈って手向けをしたことからと考えられている。漢字の「峠」は日本で作られた国字で、「山」「上」「下」からなる会意文字である。”
となっている。まあこれも解釈のひとつではあるだろう。しかし、これは体制側の解釈で、古い地名として「トッケ」あるいは「ドッケ」などの音が山に残っている。このトッケあるいはドッケを書物にあたってみると“武蔵通志”に「方言峰の尖りたるをトッケ(ドッケ)という」とあるようだ。これによると岳はまた峠でもあったということだろう。そしてまたこのトッケはトゲにも通じると想像を巡らせる楽しさ。ともあれ日本武尊が東征でエビス(夷)というような蔑称で呼ばれた原・住民を次々と制圧する中でトッケ・ドッケは峠・岳として残ったのはなによりだったと思う。
(一説には古代朝鮮語とのつながりを指摘する説もあります。古代朝鮮半島を経由しての渡来民も多いですから、有り得る話ですね)

この道の先にはどんな峠が待っているのだろうかまあ、こういうような想像も含めて、小学校4年の十文字峠以来、峠の不思議な魅力に惹きつけられてしまっているのでした。そのため八王子の日本閣横の御殿峠なども隈なく散策し尽くすなど、山でなくとも足を伸ばしていたりします。クライミングや沢登り、雪山も楽しみますが、季節のいい時期に地図上で峠の文字を探し出し、そこへ足を運ぶ”峠ハイキング”をキャンプとセットで味わうという密かな楽しみを続けていきたいものです。
さて、大好きな一文。
東北の峠には一揆と飢饉の歴史が刻まれ、馬の鈴が耳に聞こえる。関東の峠には民権の雄叫びが聞こえるかと思うと甲信越の峠には工女たちの嘆息がもれる。関西の峠には遣隋使の足跡があり、日本海側の峠からは、塩や魚を背にしたボッカたちの足音も聞こえてくる。中国山地にはタタラと木地師の汗が流れ、九州の峠には唐物、洋物の運ばれた南蛮の香りが残っていた・・・峠の先達・井出孫六は峠をこう表現しています。
峠は山に上・下を組み合わせた、日本生まれの漢字。本義からすれば元来は「嶺」であるところ、「トウゲ(トッケ/ドッケ)」という音に「峠」という字を創作し当てた先人の偉業に感服します。そういえば裃(かみしも)も創作でしたね。
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物の見方とか価値観は、時代によって違って当たり前ですね。
確か江戸時代大八車は、江戸以外幕府御用以外使えなかったという話を聞いた覚えが有ります。
本当かどうか自信が無いですが、基本的に人間が背負って運んでいた様ですから当然道が細くて当たり前なんでしょう。
無言貿易 大昔はきっとどこでもあったんでしょうね。
楽しいお話ありがとうございました。