記憶のかけらふとした空白の瞬間に、気づけば後悔ばかりしている。
欝になる、っていうほどのものではないようだけれど、気分が落ち込み、自分がダメ人間以外の何ものでもないように思えてしまうのだから悲惨なものだ。しかし、こんなどうしようもない気持ちからレスキューしてくれるCMがある。大広の九州支社が社内制作スタッフだけで作った「大分むぎ焼酎・二階堂」のCMだ。
近道は、遠回り
急ぐほどに、足をとられる
始まりと終わりを
直線で結べない道が、
この世にはあります
(一生に何回 後悔できるだろう。)
迷った道が
私の道です
“一生に何回 後悔できるだろう。”に続けて“迷った道が 私の道です”と続くフレーズに、はっとさせられ心が軽くなった。以来このCMが流れるたびに、じっと食い入って見てしまう自分が居た。このCMの“後悔”とは行動した結果としての後悔なのではないのか。そういえば若かりし頃のこと。
「1度きりの人生、後悔しないように生きたいすよね」
当時仕事仲間だったS原が新宿の「どん底」というバーでビールをちびちびと飲みながら言った。
「でも・・・やってもやらなくても、後悔ってするんすよね」
Sはそう言って顔をくしゃっとさせた。目が小さい彼の顔は、笑っているのか泣いているのかわからなくなる。したたかに酔っていた彼はそのままうなだれて首を振った。なるほど、泣き笑いだった。
優しくて遠慮がちな性格から相手に調子をあわせ主張しない彼は、やはり相当に鬱憤を貯めこんでいるようで、仕事帰りの深夜いっしょに飲むたび自虐的に自分のダメさ加減にこうなるのだった。
しかし、この夜の自虐テーマは仕事でなく女のこと。好きだったイラストレーターの女の子に告白したら断られてしまったという、傍目にはなんともニヤリものの題材なのだが、彼にしたらそれこそ人生の、いや、この世の終焉にも匹敵するほどの出来事だったろうことは想像できる。
彼女のニックネームは“うずらちゃん”。これは、ボクとS原の間だけの符丁のようなものだ。うずらちゃんは小柄で細身、化粧っけのない宮崎あおいチックな永遠の少女を地で行くような女性イラストレーターで、ボクも好感という意味で好きだった。知り合ったきっかけは、彼女がたまたま当時ボクらが勤務する六本木の広告プロダクションに、ひと抱えもありそうな作品ファイルを抱えて飛び込み営業に来たからだった。
その結果は前記の通り、ボクはもちろんのことS原は作品そっちのけで彼女の熱烈なファンになってしまったのだった。当然S原ときたら次々舞い込むポスターでも雑誌広告でも、とにかく何でもかんでも「うずらちゃんのイラストしかないよね!」と目を輝かせる。
忙しいとは言っても深夜0時を過ぎれば仕事も一段落。事務所を後にしたボクらがたいてい向かったのが旧防衛庁横のBarジョージズだった。しかしうずらちゃんと出会ってからというもの、ジュークから流れるソウルミュージックに気持よく身を委ねて飲んでいる横で彼女のことばかり話すS原にゲンナリし、とうとうボクは「人生1度きり。そんなに好きなら告白しろよ。大きな後悔を抱えて年取るぞ」といい加減なことを言った。これに対し彼の反応は意外にも真顔でこっちを見た。何か言わなければと思い、とっさにプレゼンでクロージングする感覚で“告白する勇気がなくて後悔したいなら、このまま彼女の話をグダグダ話していればいいけどさ“、と締めくくった。
これが予想外の効果を発揮した。
この夜からS原は静かになった。そして数週間後の夕方、師匠や他のスタッフらが帰宅すると、そそくさと事務所のチェアやテーブルを屋上に運び始めた。屋上からは六本木の夜景の上にキラキラと東京タワーのイルミネションが一望できた。そこを独占するようにテーブルとチェアがセッティングされ、テーブルの上のアイスペールにはシャンパンが冷やされていた。つまりこれこそSがこれまでの人生経験を全てつぎ込んで創りだした告白のステージだったのだ。
S原は打ち合わせという名目でうずらちゃんを事務所に呼び出していたようで、事務所のインターフォンが軽やかに鳴った。Sが座っているはずのパーテションの向こう側は静まり返ったまま。トイレかな?と彼のデスクに走ると彼は血の気の引いた顔で蝋人形のように硬直していた。
「おい!来たぞ!」とハッパをかけると、顔を苦しそうに歪めて笑うとゴクリを唾を飲み込んでから、かかとを引きずるように受付へと姿を消した。しばらく何やら話すくぐもった声が聞こえていたが、やがてガチャリとドアの閉まる音を残しふたりは出て行った。
5分・・・10分・・・15分・・・
屋上で繰り広げられているドラマをあれこれ想像すると、人ごとながらボクの心臓は驚くほどドキドキと高鳴り、そればかりか手のひらがじっとり汗ばみ仕事どころではなくなってしまった。
30分・・・1時間・・・2時間・・・
いくら何でも単なる告白であれば時間がかかりすぎのようだった。ボクは好奇心を押えきれず屋上へ向かった。屋上へ通じる鉄扉をそっと開けて出てみると、東京タワーのイルミネーションが誰もいないテーブルの上の銀色のアイスペールに踊っているだけで、うずらちゃんも、Sも居なかった。
ボクは拍子抜けしてテーブルに近づいた。その時、テーブルの向こう側に黒いものが横たわっているのに気づいた。それはS原だった。S原が大の字になって、夏の屋上の生温かいコンクリートの床に横たわっていたのだ。
とどのつまり、彼は告白にしくじったのだった。当初うずらちゃんはこのロマンチックなセッティングに大喜びし、二人で乾杯した後はいい雰囲気だったようだ。しかしいざ告白となると言い出すきっかけがつかめず、焦ったSは手すり際で夜景を眺めるうずらちゃんの肩を抱いてしまったのだ。しかし彼女はそれを冗談と思って笑っていたところ、何を勘違いしたのかSはキスという暴挙に出てしまった。
それでジ・エンド。うずらちゃんはSに平手打ちをお見舞いし、走り去ってしまったのだ。その平手打ちの衝撃に床にひれ伏した彼は、立ち直ることができずに1時間半もこのまま屋上と同化し続けていた、というわけだった。ボクはしかたがないので、六本木交差点でタクシーを拾い、新宿3丁目の「どん底」という飲み屋に繰り出したのだった。
願望叶わぬ恐怖から告白を躊躇する、というのは多くの人が経験しているかもしれない。“やってもやらなくても、後悔ってするんすよね”と当時彼が半泣きで訴えていたが、今思うと、行動したのと諦めたのとでは天と地の差のように思える。諦めた悔恨には成就されないままの、たとえば亡霊のような念が渦巻いているように感じる。
そういえば、ほとんどの人は、死を前にすると“必ず後悔する”のだという。これは、終末期医療の専門家である大津秀一氏が、千人を越す患者たちの吐露した思いを集約した『死ぬときに後悔すること25』という書籍にあった。
人は人生の最期を前に・・・「健康を大切にしなかったこと」、「他人にやさしくしなかったこと」、「故郷に帰らなかったこと」、「会いたい人に会っておかなかったこと」、「心の内を、この思いを伝えられなかったこと」などを悔いるのだ。この、儚くも切ない思いに胸が締め付けられるような気持ちになってしまう。そして後悔の念が強い人ほど終末期に痛みを感じたり、苦しんだりする傾向がみられ、一方、人生を納得して生きてきた人、自分の判断で道を選んできた人は苦痛も少なくよい終末期を送れる傾向がある、と筆者は言う。
その意味では、Sはしっかりと自分の思いを伝え、きっぱりと断られたのだから、後悔と言っても意味は全く違って、死期を前にした時、おそらくは清々とした気分で大往生をとげられるに違いない。
行動した上での後悔より、やらなかったことへの後悔のほうが、はるかに悔恨の念は深い。だから、生きる上で大切なのは「後悔しないように生きる」のではなく、「後悔することを恐れない」ことだと、この頃では思うようになった。
つまり、それこそが行動した結果の軌跡“一生に何回 後悔できるだろう”“迷った道が私の道です”ということではないのかと・・・こんなことを思いながら、毎夜飲むのは“いいちこ”だったりする。なので今度山に行く時には迷わず二階堂を買うことにしよう。
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テーマ:生き方 - ジャンル:ライフ
もっとも好きな映画,ジョーブラックによろしく の台詞で
no regrets
とありますが,思い出しました.