記憶のかけら彼女はグラフィックデザイナーで、そろそろ40歳になろうとしている。
彼女がTエージェンシーに勤務していた20代頃のファッションは、グラフィックデザイナーらしからぬ、めちゃくちゃタイトなボディコン的なものだった。おまけに強めの香水がぷんぷんと匂うので、打ち合わせのときは窓をあけて匂いを緩和させた。彼女が帰るとボクはすかさずコーヒーをドリップし、派手な残り香の中和にやっきになった。
長身で目鼻立ち整う彼女の容姿は、自分で選んだ香水同様にかなり派手だった。もしも香水がもっと奥ゆかしげに香っていたなら、彼女との打ち合わせはきっと天国のように楽しいものになっていたことだろう。
最近、たまたま彼女と会う機会があった。その際に、そろそろ40歳に手がとどくはずの彼女と青山で待ち合わせして本人を識別できないという不覚を演じてしまった。
脳裏では例の派手な香りとともに派手なタイトファッションでご登場、というシミュレーションが出来上がっていたのだけれど、彼女は人ごみの中から黒でまとめたタイトスカートファッションに黒のレギンス、白黒コンビのヒールに大きな黒いボストンとサングラス。というモデルばりの出で立ちで颯爽と現れたのだった。
モデルかな、と思いながら視線のはじで見て見ぬふりしていると、なんとボクのすぐ横に立った。非言語的行動における距離感覚でいえば、その距離45センチほど。これはつまり、かなり親しい関係の場合にとる親密距離である。
妙な焦りを感じ、ボクは彼女と反対側に視線を向けながら横に移動したが間合いはたちまち詰められてしまい、ついに彼女へと視線を向けたボクに「おひさしぶりです」と彼女は会釈した。
「あ!なんだI野さんだったのか!」と拍子抜けすると「襲われると思ったんでしょ」と相変わらずの小悪魔な笑み。かすかに漂うのは、柔らかな花の香りだった。いいにおいだね、というと「フラゴナール」と彼女。なんだかいい雰囲気になったなぁと見違えてしまった。
そんな魅力的な女性ではあるけれど、残念ながら10年前に結婚している。相手は当時、ボクとは別の広告代理店でアートディレクターとして活躍していた知人のS川氏。ボクは、二人の結婚式の披露宴パーティを仕切らせていただいた。
さて、フロムファーストビルのカフェで打ち合わせを一通り済ませるとケーキを食べながらの近況報告になった。彼女は、あなたが海辺の町に移住するなんて気でも違ったのかと思った、だの、山から離れられない性質(たち)だから数年したら山梨や長野に行くことに1万円賭けちゃった、だの、意地悪っぽく笑いながら饒舌になった。
あまりにも言われっぱなしで悔しいので「山が好きだから、それで、海辺の町に移住したんだよ」と、つい心にもないことを言ってしまった。すると彼女は「へぇ・・・」と右手で頬杖をつきながら、左手でティーポットを弄びながら黙ってしまった。
意図しなかった沈黙に内心あわてたボクは、話題の糸口にしようとポケットをまさぐりiPhoneを取り出そうとした。すると
― いっしょにいると鬱陶(うっとう)しいんだけれど、いなくなるとなんだか恋しくなるのよね
彼女は、そうぽつりと言うと、てへへと舌を出して紅茶を飲んだ。数日前にちょっとしたことで言い争いになり彼が出て行ってしまったらしかった。外見は鼻っ柱が強そうだけれど、けっこう気弱なS氏のこと。たぶん帰るキッカケが見つからなくて困っているのは奴の方だよ、と彼女にS川のケータイに電話することをすすめた。
― いなくなると恋しい・・・
丹沢あるいは高尾の近くに住んでいた数年前。近くにあるのに忙しいだの、疲れただの、何かと理由をつけてあまり足を運ばなかった。出かけるのはもっぱら北アルプスだったり福島だったり。遠くの山々ばかりだった。
そして気まぐれから海辺に移住してしまった今。丹沢とか高尾とか、今まで身近だった山々が北アルプスなどの峰々同様に、なんだか恋しくてたまらなくなってしまった。そう感じながら「山が好きだから、それで、海辺の町に移住したんだよ」という出まかせのフレーズを思い返して、まんざらでもないなと思った。
補足しておくと、彼女がSに電話して今日の夕食は何にする?と言うと、S川はぼそりと「おでん」とつぶやき、俯きながらばつ悪そうに帰宅した、とのこと。きっと離れて、彼女をますます好きになったのだと・・・できれば、そう願いたいものだ。
◆夢と消えてしまったSoulBar George’s(ジョージズ)
にほんブログ村
- 関連記事
-
テーマ:生き方 - ジャンル:ライフ
とにかく、遭う人会う人、
みんなが「なんで海なのさ」のような態度。
こうなったらサーフィン始めて「海が好き」宣言しちゃおうかと(笑