
クリックで拡大1972年5月に発行された
CLIMBING誌の表紙を飾るのは、ひとりの年老いたクライマー。幾多の困難に立ち向かったことを予感させる厳しい眼差しと、不屈の気持ちが見て取れるその口元。
ちまたに溢れる好々爺のように全てを達観したかのような穏やかさとか、諦めとか。そんなふにゃふにゃしたオーラなどこの老人は微塵も感じさせない。かっこいいではないか。この、たった一枚の古びた雑誌の表紙写真に、現在の、老人が堂々と胸を張って、人生で積み上げてきた強さや気概、気迫を示しにくい社会というものに気づかされてしまった。
さて、着古したコットン(ウール?)の着衣からのぞく、まるで手袋のように見えるごっつい手には、スイスの名匠・
ベントにも見えるピッケルがのっている。
ベントは、かのエドモンド・ヒラリー卿とテンジン・ノルゲイが、1953年のエヴェレスト初登頂を成し遂げたまさにその時、天空に掲げたピッケルだ。この当時のピッケルのピック(刃先)は、写真のように真っ直ぐに伸びている。
それは、ウォルター・ウェストンが愛用していたスイスのエルクにしろ、フプアウフやシルトなども同様だ。エルクはヘッドとシャフトの部分のデザインが特徴的なのでこれではないと想像がつく。エルクのピッケルは山岳資料では世界一といわれる長野県の
大町山岳博物館に展示されている。これは非常に貴重な初代エルクで、資産家であった加賀正太郎氏が明治43年 に欧州アルプス ユングフラウに登った際に使用し、日本に持ち帰ったピッケルとのこと。
これらのピッケルを模倣して作り始めたのが仙台の山内や札幌の門田。1960年代までは登山のような非生産的な行為は貴族的な趣味であり、時間と資産がなければとうていできるものではなかったという。たとえば戦後になっても輸入物のピッケル一本が大卒の初任給でも買うことはできないほど高価だったらしい。これは両親に聞いたことがある。裕福でない登山家にとって、門田や山内の存在は非常にありがたかっただろう。
さて、昭和30年代に日本人による
マナスル初登頂が成し遂げられたため、にわかに登山ブームが巻き起こった。HOPE(ホープ)の前身である飯塚運道具製作所は「マナスル」の名称を刻んだピッケルとストーブを発売した。それがマナスルピッケルとマナスルストーブ。
このピッケルはヘッドがやや湾曲しており、クラシックなベント的な造型から進化している。
それまで飯塚で製造されていたピッケルはALPINIST(アルピニスト)というもので、門田や山内同様に古典的ピッケルに通じる、ベント的な非常に美しいデザインのピッケルだった。
CLIMBING誌のクライマーの手にあるのは、確かに古典的デザイン。拡大してみるとシャフトとヘッド部分にビスのような痕跡も見られる。もし留め具の類であるとしたら、これは古典的スタイルだけれど、シュイナードのようなアメリカ製なのかもしれない。
ともあれ・・・ニコニコばかりしていない老人。長老という言葉がぴったりくる威厳が感じられて、最高にカッコイイ。ボクは、こういう巌のような老人になりたい。
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良い写真でありますね、この表紙は。
マガジンというメディアが、どのジャンルにせよ、
本気で勝負していた時代でありますね。
道具も、ひとも、なにかしら本気だったような
そんな印象を抱いてしまいます。
ごちそうさまでした。